夜が明ける。
小さな胸に、大きな想いを抱えたまま。
〜サヨナラしなきゃ〜
ロイドの眠る脳の覚醒を促したのは、温かみの一つもない規則正しい機械音。時刻は丁度午前5時。その鉄の塊は何としても己の責務をまっとうしようとしているかのように鳴り続けている。
ロイドはいつも通りのろのろと気怠げに顔を上げたが、次の瞬間ハッとして跳び起きると直ぐさまスイッチを切った。
忘れていた。そういえば今日はルルーシュも共に寝ていたのだ。もし起こしてしまったら……。
「ってあれ?」
いない。
自分の隣にあると思っていた、時折ピクピクと小刻みに動く小さな三角の耳も、大人びた表情が目立つ常とは違う、あどけない寝顔も、それどころか僅かな温もりまで。
「…まさか」
ロイドは着替えもそこそこに部屋を飛び出した。
「……ルルちゃん」
「あ、おはよう」
どたばたと階下へ降りたロイドを出迎えたのは、ダイニングへ朝食を運んでいるルルーシュ。
はぁ、とロイドはため息を吐き、近くの柱に寄り掛かった。
そうだ、自分は一体何を心配していたというのか。何を心配することがあるのか。いつもと変わらぬ『日常』ではないか。
「何だロイド。どうかしたのか?」
「…何でもないです」
猫耳に尻尾という、一般からしたら奇抜な格好をした少年は「ふーん」と興味なさげに返事してピンと尻尾を横に大きく振る。とんとんとテーブルを叩き、脱力している男を見遣った。
「何でもないならとっとと座れ。仕事遅れるぞ」
「……あのさぁルルちゃん、一つ訊きたいんだけど」
「ルルちゃん言うなと何度言えば分かる。で、何だ?」
「どうしてそうやって僕のスケジュール知ってるわけ?」
確かにこの日、ロイドはいつもより幾分か早く出ることになっている。
だがそんな時間にルルーシュを起こすのも忍びなくて、ルルーシュには置き手紙を書いて自分は適当に何か食べていこうと思っていたのだが。
対するルルーシュはことんと可愛いらしく首を傾げた。
「どうしてって……ハッキング?」
「ちょっと今聞き捨てならない言葉が聞こえた気がしたなぁ僕そんなに可愛らしい仕種したって騙されないよ!」
「? 何でそんな大声出すんだ? 兄う……知り合いは『調べ物をする時にハッキングは必須だよ』って言ってたし、俺にもやり方を教えてくれたんだ」
ちょっと何処の誰ですか知り合いさん。
詳しいことは分からないが、この子の感性がやや常識からズレているのはそいつが原因だな、と何となしに思った。後で認識を正さねば。大体ハッキングの仕方を理解してしまうこの子もこの子なのだが。
脱力するロイドを尻目に、ルルーシュはさっさとキッチンに入るとコーヒーを片手に戻ってきた。
「いいからとっとと食べろ。本当に遅刻するぞ」
「はいはーい」
とりあえずロイドは椅子に座り、目の前のトーストにかじりつく。
ルルーシュも向かいで「いただきます」と合掌をした後、フォークを手に取った。
「そーそールルちゃん」
「ん?」
「今日早く行くかわりにお昼に帰ってこれるんだぁ。だから何かお昼つくっといてほしいなぁ」
「……ああ。何が食べたい?」
「ルルちゃんのオススメ〜」
「はいはい」
ルルーシュはミルクを片手に苦笑した。
やったー、と騒ぐロイドは本当に嬉しそうで、これは手をぬけない。
さてどうしようかと思案しているうちに、いつの間にか朝食を食べ終えていた。
「じゃあいってくるねールルちゃん」
「はいはい。いってらっしゃい」
ブンブンと手を振るロイドにルルーシュは控えめに手を振り返す。
その姿が完全に見えなくなると、一つため息をついて踵を返した。
ドアを閉め鍵をかける。スリッパに履きかえダイニングを通りキッチンへ。
そのまま足は先程使った皿を浸してある水道まで向き、ざっと洗いものを見回すと蛇口を捻った。
スポンジで洗剤を泡立たせ、水の中の平皿に手を伸ばす。
ロイドが仕事へ行ったら皿を洗う。それがルルーシュの『日常』になっていた。
そんなはずは、なかったのに―――。
† † †
『ジェレミアか?』
ルルーシュがベンチに座ったままチラリと後ろを向けば、軍服姿の男が立っていた。
『はい。お久しぶりです、ルルーシュ様』
『……そうだな』
ルルーシュは立ち上がると身体を後ろに向け、ベンチを挟みジェレミアと向かいあった。
『お前が此処にいるのは、シュナイゼル兄上の命か?』
ルルーシュの厳かな問いに、ジェレミアはしばし逡巡し、小さく頷いた。
『それもありますが…私が今此処にいるのは、私自身の意思です』
『護衛としての責務か』
『ルルーシュ様』
ジェレミアは困ったように、何より悲しげに目尻を下げた。
『我等の意思もお察し下さい。貴方を仰ぐ私や他の家臣が、そのような理由だけで動くわけがないと、貴方が一番理解して下さっているのではないですか?』
『……』
ルルーシュは口を噤んだ。
分からない、わけがない。
彼等の思いも、意志も、多少なりとも分かっているのだ。
だけど。いや、だからこそ。
『さぁ、戻りましょう。ルルーシュ様』
声と同時にルルーシュの腕を掴むその手。
『……!』
だがルルーシュは反射的にその手を弾いてしまった。
『ルルーシュ…様…』
しまった、と思った。
ジェレミアの顔に滲んでいるのは、主に拒絶されたことによる驚愕と悲愁の色。
けれど、とルルーシュは歯を食い縛った。
まだ、まだ終えるわけにはいかないのだ。この『日常』を。せめて、あとほんの少しだけ。
『…俺は、まだ帰るわけにはいかない』
『ルルーシュ様…!』
『聞け!!』
何事か言い募ろうとするジェレミアをルルーシュの一喝が遮る。
ジェレミアでさえ聞いたことのない、まるで大地を響かすかの叫声は、彼が思わず言葉を飲み込むには十分だった。
だが次に主の顔に表れたのは、まるで縋り付くかのような、懇願の色。
『もう少し……そう、明日まででいい。このままにさせてくれないか。最後は、きちんと自分で終えたいんだ。最後の日常を』
『……分かりました』
ジェレミアは頷くしかなかった。
彼等家臣にとって、ルルーシュの幸せこそ自分等の幸せであり、生きる支え。
主が自分達がいる世界でなく、違う『日常』を望む事に複雑な思いは沸くが、それでも彼の幸せとなるなら家臣は譲歩したいのだ。
でも、それが出来ない。
彼等とは比較にならない地位の人間が命ずれば、彼等は否応なしにルルーシュの『日常』を壊さなければならない。
そう、彼の、幸せを。
それが、どうしようもなく悔しくて、だからこそ、少しでも主が望む事をしてほしいのだ。
この猶予はジェレミアの独断であるが、家臣なら誰でも望むのだろう。
『…では、明日の午後、お迎えにあがります。シュナイゼル殿下には上手く伝えておきますので』
『……すまない』
自分勝手なことをしていると思っているのだろう。ルルーシュは苦渋に満ちた顔を浮かべている。
いいえ、とジェレミアは顔を横に振った。
『貴方の幸せこそが、我々の全てですから―――』
† † †
「……本当、あいつも物好きだな」
こんな俺に、忠誠を誓うなんて。
それに自分がどれだけ救われているか自覚しているルルーシュでも、言い放った自分自身に穏やかな表情が浮かんでいることには、残念ながら気付かない。
と、そこに、玄関から声が聞こえた。
「た〜だいまぁ」
来た、とルルーシュは持っていた掃除機のスイッチを切る。
時刻は午後12時30分。此処から仕事場までは約30分。
ロイドのやつ、相変わらずきっちりしてるなぁとルルーシュは苦笑した。
尤も、それがルルーシュに会いたいからだというのに、当の本人は気付かない。
「――さて」
行くか。
飛び切りの笑顔で、最後の『日常』を。
ねぇ。俺は、倖せだったよ。