「ナナリー様」
唐突に、ナナリーの後ろからボイスチェンジャーを介した声が聞こえてきた。
振り返った先にいたのは、ゼロ。そこでナナリーはようやく、辺りが此処に来た時よりも肌寒くなっていることに気が付いた。
「お身体に障りますのでお戻り下さい。あなたが体調を崩せば、国の動きが滞ります」
「――ええ、分かっています」
事務的な言葉に頷くけれど、ナナリーはまだその場から動かない。名残惜しげに、兄の眠る場所を見ているだけだ。
するとまだ当分動かないと判断したのであろう、背後にゼロが近付く気配がした。――懐かしい、足音。
ナナリーから1メートルほど離れた位置で歩みを止めたゼロは、ナナリーの目線の先を追った。ナナリーの兄の墓。自分が殺した相手の墓。じっとそれを見つめていると、一年の月日ゆえか実際に墓を見て感情が揺り動かされた為か、ついぽろりとある問いかけが口から零れ落ちていた。今までずっと訊きたかった問い。しかしゼロという立場上、どうしても問えなかった疑問を。
「あなたは……私を憎んでいますか?」
貴方の兄を殺した私を、憎んでいますか。
黙って兄の墓を見つめていたナナリーにかかる、ゼロの問いかけ。
なにを今更と内心思いながらも、ナナリーは兄からゼロへと視線を向けた。
「ご冗談を。――最後まで兄を信じられなかった私が、どうして貴方を憎むことが出来るというのですか?」
私には、貴方を憎む資格すらないのです。
淡々と紡がれる言葉に、感情は見られない。向けられる表情に、一切の怒気も悲哀も浮かんでいない。果たしてナナリーが何を思ってそう言っているのか、ゼロは全く予想がつかなかった。
「兄は、死ななければならなかったのでしょう? あの場で」
“ゼロ”という正義の味方に殺されなければならなかったのでしょう、と語るナナリーは、まるで全てを悟っているかのようで。
「あなたは……」
何処まで知っているのか。
ゼロがそう言葉を紡ぐ前に、一転ナナリーはにこりと微笑んだ。まるでそれ以上の追及を阻むかのように。
「すみません。ずっと此処にいるわけにもいきませんね。押して下さいますか?」
「……はい」
ゼロにしてみれば話がはぐらかされたような気がしないでもないのだが、元々自分は彼女を連れ戻す為に来たのだと素直に頷いて車椅子を押す。
そうしてゼロに押され大人しく庭園に咲く花を見つめていたナナリーだったが、不意に決意を湛えた瞳で前を見据えた。――今日この日に、ずっと前から言おうと思っていた言葉を言う為に。
「ゼロ、これから私は、独り言を言います」
「はい?」
突然のナナリーの宣言。思わず訊き返すゼロに、ナナリーは振り返ってふわりと微笑んだ。
「言葉通り、独り言です。ただ勝手に私が言うだけですので、どうぞゼロは無視して下さい」
「……分かりました」
意図が分からないながらも首肯するゼロに感謝の意を込めて笑みを深めたナナリーは、前に向き直るとゆっくりと深呼吸する。一年前から見えるようになった菫色の瞳を閉じれば、懐かしい暗闇が己を支配した。
触れる無機物の感覚。周りの気配。――大丈夫。自分の触覚は、未だ衰えていない。この日の為に感覚が鈍らぬようにしていたのだから。
ざっと確認すると、噛み締めるようにゆっくりとその名を紡いだ。
「――スザクさん」
言った瞬間、後ろの人物がはっと息を呑む気配がした。車椅子のグリップが力いっぱい握られる。動揺ゆえか呼吸が乱れ、足音と身体の動きが僅かに変わった。「嗚呼やはり」と胸中で嘆くけれど、決してそれを表に出しはしない。もし今此処で確信を持ってその名を紡いでしまえば、兄の誓いも“彼”の意志も踏みにじってしまう。だからゼロに、その名を言ってはいけない。あくまでこれから自分が言うのは、独り言でしかないのだ。言い聞かせて、再び口を開く。
「スザクさん、もう一年経ちました。いえ、まだ一年しか、と言えばいいでしょうか。時間が経つのがひどく遅く感じます。私にはこの一年は優しさなどない、とても残酷なものでしたから」
彼はまだ動揺している。駄目なのに、そんな簡単に心を乱しては。
「時々、私は思うのです。何故お兄様は自らを犠牲にしてまで、こんな世界を平和にしたいなどと思ったのでしょうか」
こんな、私の唯一であるお兄様を罵倒し蔑む最低な世界を、何故命をかけて救ったのだろうか。
お兄様の力なら、世界中の人々を納得させるやり方が出来たのではないですか。
実際、此処一年ブリタニアが掲げた平和推進活動計画は、全て貴方が生前、内密に用意していた立案が元となっています。貴方は、時間がかかっても平和的方法でこの世界を変えられたはず。
それでも貴方があの道を選んだのは、
「……本当に、心から愛していたのですね、この世界を」
愛していたから、一番確実で迅速に平和への道となるならと、自らが犠牲になることも厭わなかった。
そう言えば貴方は“責任だから”と言うかもしれないけれど、本当はそんなものを捨てることなどひどく簡単なのだ。生きとし生けるものは皆本能で死を拒絶し、生に縋る。誰だって逃げたくなる死を世界の為にと受け入れるということは、既に“責任”という事務的な範疇を超えているのだ。これを愛と呼ばずして何と言おうか。
そしてその愛を最後まで貫けたのは、傍らに“彼”がいてくれたから。彼がいなければ、兄はきっと満足な死を迎えることが出来なかっただろう。
「だから私は、世界を愛したお兄様を心から愛して下さったスザクさんには、本当に感謝しています。私までもがお兄様を信じられなかった中、ずっとお兄様の傍にいて下さって、ありがとうございました。支えてくださって、ありがとうございました」
本当に本当に、ありがとうございました。
その言葉を最後に、ふっと目を開く。途端に視覚に頼りはじめた身体は触覚で悟る術を薄れさせたけれど、今の自分にそんなものは必要ない。
「――以上が、私の独り言です。黙って聞いて下さってありがとうございます」
再び振り返って微笑めば、「いえ……」と歯切れの悪い言葉が返ってきた。その理由が分かっていて、意地悪にことりと首を傾げる。
「どうかなさいましたか?」
「……何でもありません。貴方は、兄君が大層大事だったのですね」
「ええ。お兄様ほどじゃなくても、スザクさんという方もそこそこに大事でしたよ?」
おどけるように言った言葉に「そうですか」と頷くゼロはいつもの冷静沈着な口調で、既に動揺している様子はない。
それでいい、とナナリーは前へ向き直った。
だって貴方は、正義の味方。弱者を助ける、希代の英雄。そんな貴方が、すぐに心を揺り動かしてはならないのです。
それが貴方の、罪の償い方。そして、
そんな貴方を“ゼロ”として受け入れ一人で明日を見据え続けるのが、私の残された償い方に他ならないのだから。
身勝手な贖罪
個人的な想像ですが、ナナリーはすぐにゼロがスザクだと気付くけれど、それを決して言うことはないのだろうと思います。だってスザクはこの世にいないから。そしてルルとスザクの意志云々は本文の通り。彼女は一生ゼロとしてスザクと接しそうです。
もう一つ。ルルは自分の死んだ罪と罰をスザクに与えても(だってそれはスザクが生きていくのにどうしても必要なもので、そういう意味でルルからの愛だから)、ナナリーに与えるつもりは全くなかったでしょう。それでも兄が望まぬ償いをしようと思うのは、ナナリー自身がそうすることでただ楽になりたいから。自己擁護とでもいいましょうか。
そしてナナリー自身はちゃんとその事に気付いてると思います。彼女はきっとそういうことに聡いから。
2008.10.11