「はっ、此処まで来れば、もう大丈夫だろう」
軽く肩を揺らしながら、ジノはぐるりと辺りを見渡す。
あれからあの混雑した人込みを、僅かな隙間を縫って走ってきた。それはKMFを操縦し、ナイトオブラウンズという地位まで上り詰める程の動体視力と観察眼をもつジノだからこそ出来る芸当であり、おおよそ一般人には出来ぬ技だ。追い掛けてこれなくても得心がいく。
周囲に特に怪しい気配を感じないが故に安全だろうと判断したジノは、そういえばと未だ繋ぐ手の主へと視線を向けた。
「とりあえずあの男達はまいたみたいだけど、お姫様はヘーキ?」
「だ、だから、姫とはなんだと……っ!」
視線の先のお姫様(ジノ曰く)は反論したいようだが、先程まで全力で走ったせいでまだ息が整っておらず、肩を激しく上下させている。話すいとまもないようだ。
(あー。まずかったかな)
ジノはそこそこに速度を落として走っていたつもりだったが、それでも流石に女の子には辛い速さだったのかもしれない。ジノは後悔の念に駆られたが、それも後の祭りだ。
「あ、あなたは……!」
お、と少女の声に反応したジノは、思考していたため無意識に澄み渡る空へと向いていた視線を眼下の少女へと戻した。
まだ多少息が切れているが、それでも最初よりは落ち着いたらしい少女は、ぐっと勢いよくジノを見上げる。
「……!」
そして、その瞳にジノは目を奪われた。
深い深い紫電の双眸。何処までも底がないような錯覚がするほど深いそれは、だがしかし暗澹とした色ではなく、寧ろ限りなく澄んだ印象を与える。とてもではないが言葉には出来ない、幻惑の宝石。
その不思議な感覚に、ジノは本気でその紫翠に意識が、身体が吸い込まれていくような感覚がした。
「? あの……?」
「え、あ……」
しかし、目の前の少女が訝しげに自分へ声を掛けてきたことではっと我に返る。
じっとジノが何も言わず見つめてくるから不審に思ったであろう彼女に、ジノは乾いた笑みを浮かべた。
「悪い悪い。ぼーっとしてた」
「ぼーっとって……大体あなた……」
「あ、ちょっと待った。立ち話もなんだから、あの店でも入らない? さんざん走ったら俺喉渇いちゃって」
ジノが指を指した先は、テラスが豊富に設置された喫茶店。
少女としてはジノに色々と言いたいことや聞きたいことがあったのだろうが、元々喉が渇いた原因が自分だと理解しているからか、ほんの少しだけ逡巡したのちコクリと頷いた。
「あー、旨いなぁ、これっ」
カフェテラスの一角に座り、スプーン片手にけらけらと笑うジノ。
それに対し真正面に座る少女は、呆れた色を宿した眼差しでジノを見つめていた。
彼の手元には大きなパフェが一つ。確か喉が渇いたからこの喫茶店に入ったのではなかっただろうかと少女は自問自答していたが結局答えは出てこず、仕方なくハーブティーを飲んで気を紛らわそうとしているなどと、当然の如くジノは気付いていない。
ただ、少女はジノが落ち着くまで待っているのであろうことは察していたので、彼女の気遣いに甘えてジノは目の前のパフェに勤しむことにした。どちらにしろ散々歩き回った後だったので、何かしら腹には入れたかったのだ。
「ごちそーさま」
満足する味だったのか、ジノは上機嫌で手を合わせる。
その後遠くにいる店員に「コーヒー一つ下さーい」と注文すると、今度はしっかりと少女へと目を向けた。
「ごめんね。退屈させちゃったみたいで」
「いえ、私のせいでもあるので」
気にしていません、と続ける少女に、そうかそうかと笑った。
その屈託ない笑みに少女は虚を衝かれたように目をパチパチと瞬かせる。
あ、なんか子供っぽくてこんな表情も可愛い、とジノが思うのも束の間。
少女はすぐに先程までの無表情に戻ると、除に持っていたティーカップをソーサーに置き、すっと目を閉じた。
「……一つ、お訊きしてもいいでしょうか」
「なんなりと……あ、その前に」
「?」
目を開き不思議そうに首を傾げた少女に、ジノはにかっと人懐っこい笑みを浮かべた。
「名前、教えてよ。俺はジノ・ヴァインベルグっていうんだ」
「……ルルーシュ。ルルーシュ・ランペルージ」
「ふーん。ルルーシュ、か……」
ルルーシュ、ルルーシュ、と何度も舌の上で転がすようにジノは名を紡ぐ。
しかし自分の名を目の前で何度も呼ばれれば擽ったくもなるもので。
「な、なにか……?」
後込みしつつも問うてくる少女――ルルーシュに、ジノはいや、と答えた。
「ただ、名前も素敵なんだなーって思って」
「は……?」
おそらく悪い方にしか考えていなかったであろうルルーシュは、予想打にしない言葉にぽかんと口を開く。
かと思えばやっと言葉の意味する所を汲み取ったのか、今度はぼっと火が点いたように頬を紅潮させた。クールかと思いきや、ジノが予想していた以上に表情がころころと変わる女の子かもしれない。
「お前! よ、よくもそんなことを安々と……!」
おや、とジノは目を僅かに見開く。
混乱からか敬語がなくなった。ということは、これが素なのだろう。見た目は美人だがやや男勝りな口調だ。
でも、それは決して不愉快な物言いではなくて、逆に抵抗もなくすんなりと心に染み入っていくような、心地よい音。
「そうそう、俺の前でもそうしていて欲しいな、ルルーシュ」
「……うっ」
しまった、といった体でルルーシュは息を詰まらせる。
しばらく所在なさげに目を遊ばせるが、やがて諦めたように嘆息した。
「……話を戻すぞ」
「はいどうぞ」
素の口調で話してくれたことが嬉しいジノは、溌剌とした声で返した。
「助けてくれたことには素直に感謝している。だが、普通ああいう風に割って入ってきたら相手を倒すなりなんなりするのが常套句だろうが」
「ああ、確かに……」
「それなのに逃げたのは、相手を倒すだけの技量がなかったからか?」
「……まあ、そんな感じ」
実際には、自分の身分故あまり騒動を起こせないというのが理由であったが、正直にそう言えば彼女は間違いなくジノの役職を問うてくるだろう。それだけは、避けたかった。
だって、ナイトオブラウンズとしてではなく、ただの“ジノ”として彼女に見てもらいたかったから。
「じゃあ、なんで私を助けたりしたんだ」
「なんでって………なんとなく?」
「……お前な」
答えになっていないとルルーシュは呆れたように目を眇めた。
が、呆れられてもこちらとしても困る、というのがジノの正直な心境だ。
なんせジノとしても、何故自分が彼女を助けたのか分からなかったからだ。だから、自分の気持ちに素直になって答えただけ。
ジノは確かに好奇心旺盛で野次馬根性だってある。だが、自分の立場を十分に理解しているから、好奇心から物事に首を突っ込んでも、渦中に飛び込むことなど今までなかった。どんなことがあっても、常に傍観していたのがジノ・ヴァインベルグという男だ。
だから、ルルーシュを助けた時一番に驚いていたのは、きっと外ならぬジノ自身だったのだろう。
ただ、何となくルルーシュに目が離れなくて、何となく放っておけなくて、彼女の腕があの男に掴まれた時、自分の身体は無意識に動いていたのだ。理由なんて、ない。
でも、そう。一つだけ確実に言えるとすれば、
「……あのまま、終わりにしたくなかったのかも」
「え?」
小声で呟いた言葉がルルーシュには聞こえなかったのだろう。聞き返してくる彼女にジノは何でもないと言葉を濁すと、話題を変えようと口を開いた。
「しっかし、ルルーシュねぇ。ほんと、外見も名前もお姫様みたいだ」
「……そんな気恥ずかしい科白、よく平気で言えるな」
「そう? あ、姫ってんなら、差し詰め俺はルルーシュを守るナイトってやつかな」
「逃げたけど」
「うっ……それを言うなよぉ」
「……く……ふふっ」
拗ねたジノの様子が面白かったのか、ルルーシュはくすくすと笑う。
そんなルルーシュに、ジノも頬を綻ばせた。
会ったばかりだというのに、ルルーシュといるとこの上なく楽しい。
もっと話がしたい。純粋にジノはそう思った。
「そういえばさ、どうしてルルーシュは一人であそこにいたんだ?」
「え? ああ、私は……………あーー!!」
ジノの言葉に答えようとしたルルーシュだが、ふと不自然に言葉を途切れさせる。
かと思えば、何かを思い出したのか急に大声を上げた。
それはがたりと椅子を倒しながら立ち上がる程の勢いで、思わず訊いた本人であるジノが怯む。
「な、何……?」
「忘れてた! 学校の企画の為の買い出しをしてて、弟とはぐれたんだ! 今すぐ戻らないと……!」
「えぇっ……ちょっと待てよ!」
今すぐ、ということは、此処でルルーシュと別れることになる。
そうしたら、今度はいつ彼女と会えるのだろうか。このだだっ広い租界の中で再び偶然巡り会うなんて、到底期待出来ないに決まっている。そもそも、そんな運任せにしてしまう程ジノにとってルルーシュとの出逢いは軽いものではなかった。
理由は分からない。でも、どうしてもルルーシュとの関係を此処で終わらせたくなかったのだ。
だからせめて不自然でない程度に、彼女と自分とを繋ぐ“何か”が欲しかったのに。
「なぁ、もうちょっとくらい駄目なの?」
「悪い。ただでさえ待たせてるだろうから、これ以上いるわけには……」
「そうか……」
「悪いな。……ああ、此処は私が払うから」
「は?」
それでは仕方ないか、とジノが諦めていたところに、ルルーシュはまるで当然とばかりに支払うと申し出てきた。いきなり何を言い出すのか、この子は、とジノはルルーシュを凝視する。
「何言ってるんだよ。此処に来たいって言い出したのは俺なんだから、俺が払うって。そんなに俺が金持ってないように見える?」
「そういう問題じゃない。ただでさえ迷惑を掛けたんだから、何かお礼をしなくちゃ気がすまない。これくらい奢らせろ」
「別に礼なんて、」
「いいから奢られとけ! …………あ……」
絶対に払うぞと意気込んでいたルルーシュだが、不意にポケットの辺りを探ったままの体勢で固まる。
「どした?」
ジノが問うのと、ルルーシュが脱力したのは同時だった。
「財布……弟が持ってたんだ」
考えてみれば、ルルーシュはミレイに半ば無理矢理外に連れ出されたのだ。当然そんなごたごたしていた時に自分の財布を取りに行く暇などあるわけもない。
弟であるロロが持っている財布も生徒会のものだから、私用で使うわけにはいかないだろう。
「かいちょー……」
事の発端の発端である人物の名を、今にも呪い殺せそうな低音でもって呼ぶルルーシュ。
事情は分からないがとりあえず払えないのだなと判断したジノは、あははと笑った。
「よく分かんないけどまぁそんなわけだし。大人しく俺に奢られといて、早く弟くんの所に行った方がいいんじゃないの?」
ジノとしてはとても残念だけれど、それでもルルーシュの意思を優先したいからこそ彼女の背中を押す。
「じゃ……じゃあ、悪いけど、」
いくら引かないといっても財布がなければどうしようもないのだ。金なんていきなり降って出てくるわけもないので、渋々ながらもルルーシュは頷く。
しかし大いに不本意なのだろう。顔にでかでかと“不満です”と書いてある……気がした。
意外に分かりやすい子だなぁと思いつつ踵を返したルルーシュの後ろ姿を見送ろうとしたジノだが、ふと見せたルルーシュの行動に首を傾げる。
今すぐにでも弟の元へ行きたいであろうルルーシュは確かに数歩踏み出した。しかしすぐに足を止めると何か考えるような仕種を見せ、くるりとこちらに戻って来たのだ。
「どうしたんだ?」
「ん、ちょっと待て」
言うや否や、ルルーシュはポケットからメモ帳とペンを取り出す(常時所持)。
そこにさらさらと何かを書きこんだかと思うと、その紙を破いてジノへと押し付けた。
「これは……?」
「私の携帯番号」
「え!?」
驚いてまじまじと手元を見つめれば、確かにその紙には数字の羅列が書いてある。
(でも、なんで……)
わざわざ自分に教える理由が分からずルルーシュを見れば、彼女は憮然とした表情で言った。
「いくつもいくつも借りを作って返さないなんて、私としては気分が悪いからな。いつか絶対借りを返せるように、それを渡しておくんだ」
いいな。何か私に出来ることがあったら、絶対に連絡しろ。絶対だからな!
そう言い放ったルルーシュは、ジノが何か言う前に走り去ってしまった。
一度も振り返らずに走って、すっかりその姿が見えなくなった頃、ようやくジノは固まっていた身体をぎこちなく動かす。
もう一度ゆっくりと手元へと視線を戻し、ぽつりと独り言ちた。
「……マジかよ…」
確かに繋がりは欲しかった。しかし、まさかこんな方法で手に入れられるとは思っていなくて。
「ルルーシュ、か……」
無意識に呼んだ彼女の名。
そう呟いた自分の頬がどんなに緩んでいたか、幸か不幸かジノは知る術がなかった。
抜け落ちた黒に恋をした
自覚なんて、まだ何もなかったけれど。
自覚なんて、まだ何もなかったけれど。
おまけ。
「ロロ! ごめん、遅くなった」
「いいよ。でもどうしたの? はぐれたら此処に待ち合わせって約束、忘れてたわけじゃないでしょう?」
「いや、ちょっと面倒な奴らに絡まれて……」
「えっ!? もう、だから離れないでって言ったのに。姉さんはそういう人に対しての認識が甘いんだから」
「ごめん。でも、いつまでもロロに頼るわけにもいかないし……」
「姉さんを守るのは当然でしょ。僕達、姉弟なんだから」
「そう……だな。うんっ」
「でもまぁ……とりあえず姉さんが無事で良かった」
「ああ。助けてくれた人がいたんだ」
「! ……それって、男の人?」
「え? うん、そうだが」
「……へぇ」
「どうした? ほら、早く学園に戻ろう」
「……うん(何処の誰だ。場合によっては……)」
「ロロ?」
「なんでもないよ(ニコリ)」
ルルはきっとギブアンドテイクじゃなきゃ気がすまない性格なんだろうな、と思います。
ロロの“守る”っていうのは戦うんじゃなくて、危険そうな人を察知して鉢合わせしないようにする、という意味。
因みにこのロロは既にルルに絆されちゃってます。だからルルのことを監視対象というよりは、大切な姉として見ている設定(ご都合主義!)
最後のおまけも、監視者としてというよりは、何処の馬の骨だ姉さんに近寄ろうなんざ、といった心境です。えぇ、やや黒いですよ。ルルに関すること限定で(笑)